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更新日:2022.04.12

競技用車いすをさらに速くするために
~陸上日本選手を支えた軸受技術チーム~

競技用車いす向け技術サポート

競技用車いすを速くするという新たな挑戦

前代未聞の依頼がNTNに届いた。車いす陸上競技の男子選手二人から、ベアリング(軸受)によって競技用車いすを改良できないか、というのである。さらに速いタイムを出すために――。目的とする世界的な競技会までは2カ月ほど。時間は限られていたものの、その期間で少しでも両選手のタイム向上に寄与できるような技術サポートができないか。NTNは、すぐにチームを立ち上げて、対応に乗り出した。
しかしこれまで、車いす用のベアリングを開発したことはない。開発チームは、手探りしながら方法を探した。選手たちの競技に寄与できる軸受の開発は果たせるのか。そして結果はいかに。若手社員を中心とした短期間での挑戦の裏側を、中心メンバー二人が語る。

  • 鈴木 康介

    鈴木 康介

    産業機械事業本部
    製品設計部

  • 鷹取 広太郎

    鷹取 広太郎

    産業機械事業本部
    適用技術部

軸受の改良によって競技用車いすを速くしたい

二人のアスリートからの依頼

「ベアリング(軸受)の技術によって、さらに速く走れるようにならないでしょうか」車いす陸上競技のアスリートである伊藤智也選手と上與那原寛和選手からNTNに相談があったのは、2021年5月のことだった。両選手の練習拠点がNTNの開発拠点と同じく三重県内にあったことが縁となった。競技に使う車いすは「レーサー」と呼ばれる。レーサーは、前輪1つ、後輪2つで前後に細長い。30年ほどの間に徐々に形状が変化して現在の形になった。選手は、後輪の外側に付くハンドリムと呼ばれる環状の部位を手で回すことでレーサーを走らせる。
両選手とも、競技歴は15年以上のベテランだ。少しでも速いタイムを出すために厳しい練習を重ねるとともに、レーサーの改良にも試行錯誤を重ねてきた。しかし、軸受は個別に設計・チューニングされることは稀なようで、二人も商用のものを使っていた。ここに改良の余地があるのかもしれない。そう考えたようだった。

立ち上がった若手中心の開発チーム

「レーサーは、自転車などに比べて構造はシンプルです。その分、性能において軸受の占めるウェイトは大きいと言えます。両選手とも、その点をよく理解されて、当社に相談に来られたようでした」
産業機械事業本部 適用技術部の鷹取はそう話す。鷹取は当時、入社4年目の28歳。今回のプロジェクトにおいては、軸受の仕様を検討し、決定するといった技術面、そしてそのための実験も任された。事実上、彼の仕事がプロジェクトの成否を決めるという立場だ。
鷹取を中心とする若手中心の開発チームが結成されたのは、両選手がNTNの開発拠点を訪れて間もない2021年6月上旬のことだった。目標とする世界的な競技会は8月。2カ月という短期間でできることをやるしかない。新しい挑戦の始まりだった。

競技用車いす「レーサー」と個別設計した軸受の提供箇所(後輪2つ)

選手ごとに最適な軸受を開発する

内部のすきまをミクロン単位で調整する

開発を請け負ったのは、後輪2つの軸受だ。軸受は各車輪の内外にひとつずつあるので、後輪2つで計4つ。それらを各選手の特徴、競技の特性に沿って、選手ごとに最適に作り上げなければならない。
軸受そのものの大きさや設置位置は、選手専用ホイール構造によってすでに決まっている。そのため、今回の開発においてするべきことは、軸受の内部をいかに最適な状態にするかである。
開発チームがまず目指したのは、トルクを下げること、すなわち、軸受の抵抗を小さくすることだった。低トルクにすれば、選手がより軽い力で車輪を回すことができるため、速いタイムにつながるはずなのだ。軸受の設計を担当した産業機械事業本部 製品設計部の鈴木は言う。
「低トルクを実現するために、まずは抵抗の少ない潤滑油を採用しました。潤滑油は、粘度が低いほど抵抗は少なくなりますが、低すぎると耐久性が落ちます。軸受にかかる力を考えながら、その最適なバランスを探ることになります。また、軸受内のボールは、通常の鉄製から、重量が軽いセラミック製に変えました。これも低トルクの実現に寄与します」
そして最も微妙な調整が必要となるのが、軸受内部のすきま、すなわち、内輪・外輪と、その間に挟まれたボールの間のすきまである。すきまを大きくすればトルクは小さくなり、速度は上がる。しかしその一方で、がたつきが増し、安定性が落ちる。低トルクと安定性のバランスを考えた微妙な調整が必要になる。「走行中にかかる力によってすきまの大きさは変化します。また、ホイールにはひとつひとつ微妙な寸法差があるため、それぞれ最適なすきまの大きさは違ってきます。そうした点を考慮して、数ミクロン単位ですきまを調整していきました」

「レーサー」に使用される深溝玉軸受の構造
低トルクを実現するために軸受内部の潤滑油を低粘度化させるとともにセラミック製のボールを採用

深溝玉軸受の断面図
内輪・外輪とその間に挟まれたボールの間のすきまを大きくすればトルクが下がるが、がたつきが大きくなる
低トルクと安定性の両立にはすきまの数ミクロン単位の調整が必要

最適な設計が一人ひとり違う

実際の開発は次のように進んだ。まずは、選手ごとにホイールの構造と寸法精度を考慮した、技術計算を実施する。レース中に軸受にかかる荷重を考慮して、最適なすきまとするためだ。その仕様の軸受を独自の試験方法で評価して、良い結果が出た軸受のいくつかを、実際にレーサーに取り付けて、選手に試走してもらうのだ。そしてそれぞれの選手に走ってみての感触や要望を聞き、トライ&エラーの形で選手ごとに最適な軸受を探っていった。
軸受内部のすきまを最適化することは、軸受の設計において常に必要な工程だ。しかし今回は、通常とは違う難しさがあったという。鈴木は言う。
「私たちが普段作っている軸受は機械の内部で使うものが多く、その場合は、運転時の温度変化など考慮して設計します。そのような物理的な変化に関してはすでに知見があるために設計も行いやすいのですが、今回は人の要素が大きいという点で、これまでにない設計の難しさを感じました。選手によってレーサーの走らせ方は違い、走行中に軸受にかかる力の大きさは変わってきます。そのために最適な設計が一人ひとり違ってくるのです」

選手から預かったレーサーに軸受を装着してトルク性能の試験を実施

良い試験結果が出た軸受を実際にレーサーに取り付けて、選手が試走

調整、試走を繰り返して完成へ

20種類以上の軸受を作り、試走する

鷹取と鈴木が中心となって開発が進められた軸受に対して、両選手の反応はどのようなものだったのだろうか。鷹取が言う。
「最初のサンプルができ上がるまで1カ月ほどかかりました。それらを持って三重県内の練習場を訪ねて、両選手に4日間で10種類以上の軸受を実際に試してもらいました。するとお二人ともまずこう言われました。『いままでと全然違う。すごい軽い』と。その時はとても嬉しかったです。でも、お二人とも、『さらに速くできないか』とおっしゃって、そこからさらに調整、試走を繰り返しました。その工程が大変でした」
作成した軸受は、計20種類以上にもなった。そのすべてを、二人の選手が実際に走行に使い、タイムを測り、感触なども確かめていった。
試走時の軸受の交換は、最初のうちは会社に持ち帰って行っていたが、それでは交換のたびに1時間がかかってしまうため、途中からは必要な機材を練習場に持ち込んだ。そしてその場で交換を行うことで、より効率的に試走を行えるようにした。

試走と軸受交換を繰り返し選手ごとに最適な軸受を選定

選手によって異なる走行スタイル

ところで、伊藤選手と上與那原選手の違いはどのような点だったのだろうか。
「伊藤選手は400メートル、つまり短距離で、上與那原選手は400メートルに加えて1500メートルにも出場されているという点が、お二人の違いのひとつです。加えて、選手ごとの走行スタイルの違いもあります」
一般に、コーナリングがあるかないかで、最適な軸受は変わるという。コーナリングがない100メートルの場合は、より低トルクを追求できるが、400メートル以上のコーナリングがある距離においては安定性が大切になってくる。今回は両選手とも、コーナリングがある距離の競技へ出場することになっていたが、伊藤選手は100メートルの選手でもある。そうした点からも二人の走行スタイルは違ってくるのだろう。
いずれにしても、期限までに軸受はできあがった。両選手とも、その出来に満足してくれた。あとは、レース当日の作業を残すだけとなった。

レース当日まで続いたサポート

本番直前のチューニング

8月末、本番の日がやってきた。その日、レース直前に軸受のチューニング作業を行うことになっていたため、鷹取は、競技場がある東京を訪れていた。車を借り、東京支社の同僚とともに競技場に向かい、本番の少し前、競技場の近くで両選手からホイールを預かった。そして車内ですぐに作業にとりかかった。
「まずはホイールを回してみて、回転の調子を確認します。その上で、どうチューニングするかを考えました。オイルを補給するだけにとどめるのか、それとも新しい軸受に換えるのか。両選手とも、基本的には新しい軸受の方が好ましいとのことでしたが、その時のホイールの状態によっては必ずしも新品に換えるのが良いとは限らないからです」
鷹取は、最後は自らの感覚で決めるしかなかった。大きな責任がのしかかったが、これまでの積み重ねを信じて、ひとつひとつの軸受についてどうするかを決めていった。
2時間ほどをかけ、2選手、計4つのホイールの作業を終えた。結果、軸受の一部は新品に交換し、一部はオイルを補給するだけとした。その後、再び選手に会い、ホイールを渡した。「頑張ってください」そう声をかけて、二人を見送った。その時ようやく、鷹取と開発チームの全作業が終わったのだった。

緊張しながらのレース観戦

選手たちにホイールを渡したあと、鷹取はホテルに戻ってテレビをつけ、祈るようにしてスタートを待った。そして本番――。スポーツ観戦でこんなに緊張したことはないというほど、張り詰めた思いで見守った。あっという間に終了した。結果、上與那原選手は、400メートル、1500メートルの両方で、3位という好成績でレースを終えた。鷹取は、ただただ嬉しかった。
伊藤選手は、本番直前になって出場するレースが変わってしまうという思わぬ事態に見舞われていた。本人はもちろん、ともに練習を重ねてきた上與那原選手にとってもショッキングな出来事だったが、それでも、伊藤選手もまた、自身の力を出し切った。本番のレースで自己ベスト更新を果たしたのだ。結果こそ望む順位には届かなかったが、レース後にはやり切ったという表情を見せた。
鷹取や鈴木にとっての濃密な2カ月は、そうして幕を閉じたのだった。

レース後にNTNを訪問した伊藤選手(中央左)と上與那原選手(中央右)

このプロジェクトで得られた大きな財産

粘り強く、できる限りのことを追求する

ここまで書いてきた通り、今回の開発チームで中心的な役割を果たしたのは、鷹取や鈴木といった若手である。鷹取にとって、今回のプロジェクトはこれまでにない特別な経験になったという。
「お客さまとこれだけ近い距離で何度もやりとりを重ねながら開発を進めたのは初めてでした。人の感覚が大きく関係してくる開発もこれまでに経験がありませんでした。これで行けるだろうと思って作ったものが満足してもらえないということが何度もあり、いままでで一番大変な仕事だったと言えるかもしれません。しかしこの経験を経て、粘り強く取り組んでいくことの大切さを学ぶことができました」
一方、入社10年目になる鈴木も、今回の開発では通常の案件以上に試行錯誤することが多かったという。鈴木は言う。

人に寄り添った開発を行う大切さを知る

NTNは、今後も伊藤選手と上與那原選手の二人のサポートを続けていく予定だ。
そして、この分野に携わっていくことはNTNとして大きな財産になるはずである。若い世代の技術者たちが、人の感覚を意識しながら開発するという経験を積むことにつながるからだ。
それだけではない。車いすで生活をする人たちを身近に知り、そうした人の気持ちに寄り添ってものを作る経験は、きっと技術者にとってかけがえのないものになる――。開発チームのメンバーたちは、いま、そんな思いを確かにしている。

  • ※取材内容、および登場する社員の所属はインタビュー当時のものです。